市史だより130 (「広報いとまん」 平成13年3月号) 闇船での引き揚げ

2013年2月1日
市史だより130 (「広報いとまん」 平成13年3月号)
闇船での引き揚げ
    
 戦前、外地と呼ばれていた南洋群島やフィリピンなどの地域へは、移民或いは兵士として沖縄から多くの人が渡っていいます。『糸満市史 戦時資料下巻』は、6千人余の本市出身者が外地で戦争を体験したと報告しています。これらの人々は日本の敗戦に伴い引き揚げを余儀なくされました。
 今回の市史だよりでは、武部隊の兵隊として台湾に渡った字糸満の稲嶺盛栄さんの引き揚げにまつわる証言を紹介します。
 米軍の沖縄上陸後、台湾にいた稲嶺さんたちの部隊は、基隆の港で沖縄への逆上陸をしようと武器を積み、その準備をしていました。ところが荷積みの最中に米軍の攻撃で船が沈められ、沖縄に向かうことができずにそのまま台湾に留まることになりました。終戦後、稲嶺さんは他の兵隊たちと共に、基隆で引き揚げ船を待つことになりますが、集団生活では食べる物もなく、そのうち銘々が自活をするようになったそうです。稲嶺さんは基隆の社寮町という所で数名の糸満出身者と海に潜り、スクラップを拾って生活を立てていました。ちょうどそのような日々を送っていた時、石垣から闇船でやってきた糸満出身の宮城夏子さんという女性に会ったそうです。
 以下は稲嶺さんの証言。「昭和21年3月ごろ夏子は、闇船をチャーターして台湾にカーキー服(米軍の服)を売りにきた。船を出す時、夏子は石垣島新川の屋号カンジャーミームイの親方に『台湾からウミンチューを連れてきてほしい』と頼まれた。それで社寮町に漁師を探しにきていた。その時偶然夏子に会った。夏子が八重山に仕事がある言うと、大勢の人が集まってきた。僕も夏子も糸満の南区の出身で、お互い顔は知っている。それで僕を連れて行くことになり、他の糸満のウミンチュー4人も一緒に船に乗ることになった。闇船だからいつ出航するか分からなかった。数日後の夜、夏子から船が出るとの連絡が入り八重山に向かった。船は35トン位の漁船。夏子の他に船員が3、4人乗っていた。石垣では約束通り船賃の代わりにカンジャーミームイの親方の下で追い込み漁でグルクンを取っていた。
 半年ほど過ぎた頃、夏子が沖縄行きの船を出すと聞き、他の仲間と船に乗せてもらった。沖縄に着いたのは夜。闇船のため糸満に船をつけることができず、名城のエーギナ近くにアンカーを下ろした。家族の安否を早く知りたいという思いの余り、僕らは刳り船が来るのも待ちきれず褌一本で海に飛び込み泳いで糸満に帰ってきた。自分の家は焼けて何もなかったが、家族はカバヤー(テントを利用して作った家屋のこと)に住んでいて皆元気だった。近所には同級生が7人いたが、みんな兵隊にとられて戦死。僕だけが台湾に行って生き延びた。」
   
         瓦礫と化した山嶺毛とその周辺
   
『糸満市史 戦時資料下巻』には、字糸満の玉城次郎さんや字阿波根の花城景保さんの台湾での戦争体験、引き揚げに関する証言が紹介されています。
   
   
市史だよりNo.130/131/132/133/134/135/136/137/138/139/140
141/142/143/144/145/146/147/148/149/150/151/152