市史だより133 (「広報いとまん」 平成13年9月号)比島に渡った糸満漁夫

2013年2月1日
市史だより133 (「広報いとまん」 平成13年9月号)
比島に渡った糸満漁夫
    
 かつて海外進出で名を馳せた糸満漁師ですが、その実情はどのようなものだったのでしょうか。今回は比島(フィリピン)での状況を関係者の証言や当時の新聞記事から見てみましょう。
 比島への糸満漁師の出漁は大正13年(1924)頃から多くなり、その中心はマニラであったといわれています。外務省の旅券発給記録簿である「海外旅券下付表」によると、比島に渡るために旅券の発給を受けた糸満町民は、昭和10年(1935)以降毎年百人を越えるようになり、13年の200人余をピークに、翌年以降減少していきます。これらのうちの何割が漁業に従事したかは分かりませんが、漁業関係者が多数いたことが予想されます。
 昭和14年3月の大阪朝日新聞は、「市場の花糸満娘」という見出しで、マニラには約1000人の県人漁師がいて魚売りのため糸満女性を呼び寄せた等、日本政府の南方進出政策を背景に活躍する県人の姿を伝えています。しかし実際には、昭和7年末に比島政府が漁業法を制定し外国人漁民に規制を加えたことにより、当地での漁業経営は厳しい状況にありました。
 昭和12年にマニラに渡り、漁業組合等で働いていた字糸満の上原信也さんは当時の状況を次のように話しています。「船は自分たちのものであっても、比島人の船長と従業員を乗せないといけなかった。ライセンス(漁夫鑑札)を持っていない人は、マニラに上陸することができず、マニラに船が入港するときは、ライセンスのない人たちは漁場近くの島に降ろされて船が帰ってくるのを待たなければならなかった」。
 同じく昭和12年にマニラに渡り漁業に従事した字糸満の森重吉さんは、以下のように証言しています。「沖縄にいたら兵隊にとられると思い、マニラにいる知人に呼び寄せてもらった。向こうでは仲間22人が株主になりアルボーという名前の船をもっていたが、名義は比島人にしなければならなかった。船長も機関長も比島人でなければならず、彼らを乗せないと操業できなかった。仲間のうちライセンスをもっていたのは3人だけで、それ以外の人はマニラに行けなかった。ライセンス問題で不便なことが多く、昭和16年12月初めに中国の海南島経由で船ごと沖縄に逃げ帰った」。
 昭和16年9月の大阪朝日新聞は、森さんら同様比島政府の排日政策に困窮し、着の身着のまま比島を後にした糸満漁師の声を、次のように伝えています。「われわれは昭和12、3年に前後してマニラに渡ったが、最近は種々な法令を設けて邦人漁業者を圧迫し、今年7月には外国人の登録制が設けられて、いよいよきびしくなった、邦人漁業者が2000ペソにのぼる罰金を課せられたものも多いようだ、われわれは新南群島近くの亀甲島という無人島を基地として漁撈してきたが、母船がときたま日用品を運んでくるほかは何もない、飲み水にも不自由し最後にはマッチまでも無くなったことがある、最近はフィリピンの邦人漁業圧迫がひびいていよいよどうにもならなくなり帰国しようと決意した。」
   
     
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