市史だより137 (「広報いとまん」 平成14年8月号)ニューカレドニアの糸満漁師

2013年2月1日
市史だより137 (「広報いとまん」 平成14年8月号)
ニューカレドニアの糸満漁師
     
 沖縄から約7500km。南太平洋に浮かぶ島ニューカレドニア。「天国に一番近い島」という呼び名でも知られるこの島に、沖縄から移民が送られていたことをご存知でしょうか。同島がフランス領であることから、ニューカレドニア引揚者のことを沖縄の年輩の方々は親しみを込めて「フランス帰り」と言っています。
 沖縄から同島への移民は明治38年(1905年)に始まり、以後昭和13年(1938年)までに900人余が送り出されています。同じ時期に、糸満市域からの渡航者は約140人います。これらの人々の渡航目的は、鉱山労働がほとんどですが、昭和初期になると漁業目的による渡航もみられるようになります。また、平成7年に実施した「糸満市戦災調査」では、37人の市域出身者が太平洋戦争当時この島にいたことが分かりました。
 今回の市史だよりでは、字糸満出身で「フランス帰り」の上原初次さん(明治44年生まれ)の現地での体験を紹介します。
 上原さんは昭和5年、数え20歳でニューカレドニアに渡航。徴兵義務のあった当時、満20歳になってからは、毎年ニューカレドニアから徴兵検査の猶予願いを出していたそうです。太平洋戦争が始まると、この島に渡った多くの日本人同様、「敵国人」としてオーストラリアの収容所に送られ、戦後日本に引き揚げました。
 現地では漁師の他に服の仕立て屋、クロム鉱山での労働も経験したという上原さん。「もう少し若ければ島に行ってみたいんだが」と、当時を懐かしみながら、次のように話してくれました。「島には漁業目的で行った。母方の叔父で〈加仁西表〉の大城加禰が一緒。手続きは那覇にいる代書にやってもらった。あの頃沖縄から先に渡った人達は皆鉱山で働くための契約移民だったが、私達は自由移民。島では主にヌーメアという所に住んだ。ここはニューカレドニア一の都会。高瀬貝を捕って暮らしていた。現地には高瀬貝を捕る糸満の人が20人近くいた。沖縄では1日に2、3キロしか捕れなかった高瀬貝が、2、30キロも捕れた」。しかし島での生活はいい面ばかりではなかったようです。島がフランス領だったことから、上原さん達外国人漁師はいくつか制約を受けたと話します。「自分の船であっても船長はフランス人(現地の人のこと)にしないといけないし、船には日本人1人に対し3人のフランス人を乗せないといけないという規則があった。私は島の14、5歳のボーイ4、5人を使っていたが、そのうちの1人の名義を借りて船長にした。ボーイ達は1年働くのもおるし、2年働くのもいた。この子たちは泳ぎはうまいが潜りは素人。でも1年もいると、2、30尋(1尋が約1.8m)も潜れるようになっていた。エンジン付きの船で朝早く出港し、天気さえ良ければ1週間でもずっと海に出ていた。沖縄には一度も帰ることなく、ずっとニューカレドニアにいたが、戦争が始まって、捕虜になりオーストラリアのシドニーの収容所に約4カ年いて、戦後日本に強制送還された」。
    
  上原初次さん
   
   
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