市史だより138 (「広報いとまん」 平成14年12月号)日系移民が見た沖縄戦

2013年2月1日
市史だより138 (「広報いとまん」 平成14年12月号)
日系移民が見た沖縄戦
     
 沖縄戦当時、米兵として沖縄にやってきた沖縄出身の移民がいたことはよく知られていますが、そのなかに本市出身者がいたことをご存知でしょうか。現在確認できているのは、字糸満出身のケンゾー・ミヤシロさんと字賀数出身の大城孝成さんの2人で、2人とも米陸軍第27師団の通訳として沖縄に派遣されました。
 今回紹介する大城孝成さん(1923年生・ホノルル在住)は、ハワイ生まれの2世で、幼い頃沖縄に来て、兼城尋常高等小学校で学び、その後ハワイ島に戻りました。戦争中大城さんの家族は祖母と兄嫁と甥姪が沖縄に、両親と姉弟がハワイに住んでいました。少年期を沖縄で過ごした大城さんは日米開戦後も日本びいきだったと言いますが、プランテーションのマネージャーに勧められて、1944年1月、20歳で志願兵として入隊。米国本土で1年近くの訓練を受け、翌年4月中旬沖縄に到着。飛行機で読谷に降りたそうです。沖縄行きが決まったときには知り合いに会える、ウチナーンチュを助けられると嬉しかった反面、「ウチナーンチュがウチナーンチュに銃を向けるのか、卑怯者」と言われるのではと、とても恐ろしい気持ちにもなったそうです。以下は本人の証言。
 「通訳として石川や屋嘉にも言ったし、名護の掃討作戦にも行った。石川はまだ建物が残っていて、島尻やあちこちからの避難民がたくさん集まっていた。家のない避難民はテントを張って暮らしていた。1つのテントに百名もの人が入っていた。仕事は捕虜に名前や部隊名、兵隊の人数や敗残兵がいるのかなどを質問することだった。日本の兵隊は大概初めはしゃべらない。名前を聞こうとすると『不名誉だから名前は言いません。殺してくれ』と言う。アメリカでは捕虜になっても生きて帰りなさいと教えるが、日本では反対。捕虜になったら恥だと言う。しかし不名誉を恐れてなかなか口を開こうとしなかった者が、一旦話し出したらぺらぺらとよく話した。戦争中は珍しいことに賀数の人とは一度も会わなかった。戦争が終わってから自分のムラを訪ねたが、その時はまだムラには誰も戻ってなかった。祖母の家に行くと蜂の巣みたいにやられた水タンクが残っていた。それから2、3週間後にムラのひとが賀数に帰ってきた。最初に会ったのが、子供の時可愛がってもらっていた照屋亀八さん。亀八さんはその頃ムラの世話役をしていた。ムラの人たちはテント小屋を建てて住んでいた。マットレスカバーやブランケットなどを持っていくと、ムラの人たちに喜んでもらえた。亀八さんは覚えているかどうか知らないが、時計を持っていったら亀八さんにとても喜ばれた。そのころ知念や佐敷にも行ったが、野原やキビ畑を通ると、豚や山羊、馬そして人間が死んでおり、臭くて通れなかったことを覚えている。石垣を見ると、石垣に倒れたまま死んでいるのもあった。」
    
     大城孝成さん
    
    
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