市史だより139 (「広報いとまん」 平成15年7月号) 真珠湾で戦没した兄

2013年2月1日
市史だより139 (「広報いとまん」 平成15年7月号)
真珠湾で戦没した兄
     
 先月の慰霊の日には、多くの方が摩文仁にある「平和の礎」を訪れたことでしょう。平和の礎には、本年6月現在、23万8429人の戦没者名が刻銘されています。うち1万1669人が本市の出身者です。このなかには移民先のハワイで戦没した人も含まれています。今回紹介する上原亀保さん(字糸満南区出身)がその人です。日系二世としてハワイに生まれた上原さんは、真珠湾攻撃の翌日、漁から帰る途中に米軍機の機銃攻撃を受け亡くなりました。
 以下の証言は、ホノルル市在住の妹、天願トミ子さんに語ってもらったものです。
 「兄、亀保は1941年12月8日に、真珠湾で機関銃の攻撃を受けて亡くなりました。兄は漁師でした。あの頃兄たちは10日から2週間ぐらいずっと沖に出て、シビナー(マグロ延縄漁)というのをしていました。
 7日(現地時間)に戦争が始まったでしょう。ラジオを聞いて、『様子が変だから帰ろう』と言うことになり、翌朝明るくなったころに帰り支度を始めたそうです。兄たちの船は、船長とその息子、それから新垣さんという人と兄の4人が乗っていて、新垣さんが下でエンジンを起こし、他の3人が上で様子を見ていました。その時に上から飛行機が来て、機関銃でバンバンバンバンやったんです。アメリカの飛行機ですよ。その時に上にいた3人が亡くなったんです。
 その頃私は白人家庭に奉公してましてね。7日は日曜日でしたから、家に帰ろうという時に『戦争だぁ』言うてね、帰れなくなったんですよ。8日の夕方になって、義理の姉から電話があり、兄が怪我をしてクイーン病院にいると伝えてきました。その後も兄のことを誰かが知らせてくれるだろうと思いましたが、何の連絡もありませんでした。前日から夕方になると灯火管制で電気がつけられず、外に出られませんでした。
 暗くなりかけてから、奉公先の主人が、『あんたの家族はどうしているかねぇ』と、夜でも外出できるようなタスキをもらってきて、病院に連れていってくれました。病院に行ったらたらい回しで、誰も兄がどこにいるか教えてくれませんでした。しびれを切らした(奉公先の)主人が、事情を話して本当のことを教えてほしいとお願いしたら、とうとう言いましたよ。『気の毒だけど死体置き場に3人の遺体がある。軍からシャットアウトされているから、死体は見せられない』言うて。それからはもうどうしていいか分かりませんでした。
 戦争中は他人の家に行って話すこともできませんから、一緒に船に乗っていた新垣さんの所に行って、事情を聞くこともできませんでした。兄がなくなって2年経ち、3年経ちするうちに大概のことが分かってきましたが、公にすることはできませんでした。」
     
上原亀保の名前が刻まれている
平和の礎の刻銘板
   
   
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