市史だより141 (「広報いとまん」 平成15年12月号)パラオの現地召集兵

2013年2月1日
市史だより141 (「広報いとまん」 平成15年12月号)
パラオの現地召集兵
     
 沖縄本島から海を隔てること約2千キロ。太平洋の西端に300余の小さな島々からなるパラオ共和国がります。パラオ諸島を含む南洋群島の島々は、戦前、戦中日本の統治下にあり、多くの日本人が移り住んでいました。昭和12年のパラオの日本人在留者は約1万1千人で、その4割強が本県出身者でありました。(『沖縄県史 移民』より)現在のパラオの人口が2万人に満たないことを考えると、その数がいかに大きいかが分かります。
 太平洋戦争中、パラオに住む日本人男性の多くが現地日本軍の召集を受けました。『沖縄県史資料編17』を見ると、本県出身者3千59人が現地で応召し、664人が戦死したことが確認できます。驚くべきことに、応召者のなかには、70代が3人含まれています。本市出身応召者は211人で55人が戦死しました。パラオ本島では米軍との地上戦はなかったが、戦況激化で海上輸送が困難になると、食糧が不足し、多くの住民が栄養失調で苦しみました。軍隊でも同様であったといいます。
 これから紹介する玉城良順さん(字糸満在)は、サイパンからパラオに渡り、いくつかの仕事を経て、昭和16年ごろから南洋興発株式会社の運転手として働いていました。昭和19年、戦況はいよいよ悪化し、パラオは米軍の空爆を受け、陸上輸送の仕事ができなくなったといいます。そのような時に日本軍から召集を受けました。玉城さんが応召したのは、昭和19年9月。以下は玉城さんの証言です。
 「戦況なお厳しさ増すなか、会社の機能も不能となり、社長をはじめ幹部や私たち運輸部の社員に至るまで現地召集兵として、パラオ本島ガスパンにあった由良部隊に配属になった。そのうちに海上輸送が途絶え、食糧・物資が入ってこなくなった。軍隊では自給自足をすることになり、昼間は空襲に備え防空壕に隠れ、朝夕の爆撃のない合間に山を開墾して芋やタピオカを作った。だが、兵隊のなかにも餓死者が出るようになり、今この戦闘より今日、明日の食糧を如何に確保するかが問題だった。戦争で傷つき死んでいった人々よりも、やせ衰え餓死した人々の方が多かったと思う。そんな状態のなかで沖縄が全滅したという話を聞き、また日本が降伏したということを知った。敗戦を聞いて、1ヶ月ぐらいして、部隊は解散になった。以前住んでいたところに帰っていいということになり、私は大和村に戻った。」
 敗戦により、玉城さんは他のウチナーンチュ同様、強制送還で沖縄に引き揚げました。
   
   
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