市史だより143 (「広報いとまん」 平成16年6月号) 『糸満市史 資料編7 戦時資料上巻』より

2013年2月1日
市史だより143 (「広報いとまん」 平成16年6月号)
『糸満市史 資料編7 戦時資料上巻』より
    

沖縄戦終結からまもなく59回目の夏を迎えます。慰霊の日を間近に控え、この季節になると、多くの方が、戦争や平和について、改めて見つめ直していることでしょう。

先に糸満市では、『糸満市史 資料編7 戦時資料上巻』を発刊しましたが、同書を通して、沖縄戦当時の糸満市域の状況を調べてみるのも、戦争や平和について考える一つの手がかりになると思います。書名からは、堅苦しく難しい本という印象をもたれがちですが、写真や図表、コラムを多用し、読みやすい本に仕上がっています。今回の市史だよりでは、同書に掲載されたコラムの一つを転載して紹介します。

     
     

潮平壕

沖縄戦において、多くの住民の命を救ったガマとして潮平壕がある。旧兼城村一帯ではそれほど激しい戦闘がなかったことと、ガマなどに避難していた人々が米軍の投降呼びかけに抵抗しなかったことが、多くの犠牲を出さずにすんだ理由であろう。潮平住民の多くが避難する潮平壕でも一度は日本軍の追い出しに遭い、危うく多くの住民が犠牲になるところであった。字の人たちが伝えるところによると、その顛末は次のようである。

日本軍の加藤曹長がガマにやってきて、「軍がこのガマを使うから出ていくように」と住民に言った。住民が戸惑っていると、曹長は日本刀を抜き、自分の手を傷つけ、赤い血を湯飲み茶碗に流して、無理矢理それを区長に飲ませ「天皇の軍隊の血を飲んだのだから、責任をもって住民をガマから出せ」と迫った。一部の住民はガマの奥に逃げ込んだが、多くの住民は散り散りにガマを出ていった。住民を追い出した軍隊は、一晩ガマにいただけで、翌日には出ていった。ガマを追われた住民たちは戦場を逃げ惑ったあげく新たな避難先を捜すことができず、結局、元いたこのガマに三々五々戻ってきた。住民たちは米軍に投降するまでこのガマの中で避難生活を送った。
 住民が米軍に投降したのは、6月14日のことだった。「デテコイ、デテコイ」との外からの投降呼びかけに、「住民は殺さないはずだ」との元軍人の金城栄昌〈新前下玉江小〉の言葉で投降することが決まった。長老の金城次郎〈上門屋小〉と金城金三〈仲湧川小〉を先頭に女性と子供たちが続き、大勢の住民がガマを出て米軍に投降した。
 このガマのお陰で多くの命が救われたことに感謝し、潮平区民は終戦から2年目の年にガマの入り口に鳥居を建立し、ガマを潮平権現洞と呼ぶようになった。米軍に保護されたこの日が旧暦の5月5日であったことから、毎年旧暦のこの日に、字の役員や有志や関係者がこの場所に集まり、ガマへの感謝と戦争犠牲者の追悼、世界平和の祈願を行い、この出来事を語り継いでいる。

    
     5月5日の潮平壕
       
      
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