市史だより144 (「広報いとまん」 平成17年4月号)戦後60年目の遺骨収集

2013年2月1日
市史だより144 (「広報いとまん」 平成17年4月号)
戦後60年目の遺骨収集
    
 県道7号線。真壁から米須小学校に差し掛かる手前右手側、カーブ沿いの崖下に「ハーグチ」または「稲嶺壕」と呼ばれる自然壕があります。現在この壕の入り口は土砂で塞がり、外から確認することはできません。終戦から60年の今年2月、この壕で厚生省による遺骨収集が行われました。今回の遺骨収集は、壕の生存者で元日本兵の辻雅廣さん(山梨県在)らが、長年関係機関に働きかけて実現に至ったものです。
 辻さんは昭和20年5月下旬、南風原村(当時)にあった兵器廠部隊から大里村の独立重砲第百大隊第一中隊に転属となり、同部隊と命運を共にしました。辻さんらは大里村から高嶺村、更に真壁村へと撤退し、6月中旬にこの壕に辿りつきました。当時、部隊ではこの壕を「真壁の壕」と呼んでいたそうです。沖縄戦末期、同中隊はこの壕で解散。その頃の状況について、辻さんは次のように語ります。
「道路脇の岩下にある穴を潜るようにして入ると、数十人が入れる程の小さな天然壕があった。中には大勢の負傷兵がいた。壕に来て数日目の6月19日の夕方、『本日をもって、独立重砲第百大隊第一中隊を解散する。足腰の立つ者は国頭方面に突破せよ』との命令があった。この時、私を含めて13人が敵中突破をして国頭に行くことになり、三十数人が壕に残り私たちを見送った。その後、壕にいた人たちに会うことはなかった。」
 4ヶ年近く軍隊にいた辻さんですが、部隊の解散とはこれまで聞いたことがなかったそうです。壕を出た辻さんは仲間と国頭突破を試みましたが、負傷し仲間からはぐれ、摩文仁海岸を逃げ惑い米軍の捕虜になりました。収容先の屋嘉でも中隊の兵士を探し回ったそうですが、見つけることができず、戦後ずっと壕に残った人達のことが気になっていました。
 今回の遺骨収集で、この壕から12人の遺骨を収集。沖縄県によると、平成17年3月末までに収集された沖縄戦犠牲者の遺骨は18万3,770体で、未だに4,366人の遺骨が収集されていません。
     
     遺骨収集作業の様子(平成17年2月 米須)
    
       
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