市史だより148 (「広報いとまん」 平成18年8月号)大城勇一氏の記録に見る沖縄戦前夜

2013年2月1日
市史だより148 (「広報いとまん」 平成18年8月号)
大城勇一氏の記録に見る沖縄戦前夜
     
 今回の市史だよりは、前回も取り上げた旧兼城村の助役大城勇一の残した資料から、沖縄戦前夜の宮古島の様子を紹介します。大城は昭和17年から22年にかけて、県農業会の職員として宮古で勤務していて、そのころの日々の出来事を日記に記録しています。現在確認できる宮古時代の日記は、昭和19年8月1日から翌年3月31日の日付のもので、資料からは、戦時体制下の社会の様子や、空襲の危険と恐怖に曝されながらの人々の暮らしぶりなどが垣間見られます。
 昭和19年7月7日、政府は緊急閣議で琉球諸島と奄美諸島の住民の疎開を決定。その約1月後、8月1日から始まる日記には、「疎開問題で郡内・町内は混乱している」と記されています。
 そして、初めて空襲を受けた同年10月10日、いわゆる十・十空襲については、「午前七時ごろより約四十分間初めての空襲があり、昼過ぎに第二波の攻撃があった。主に飛行場と船舶が攻撃の対象となり、張水港に停泊中の大型船が轟沈した」とあります。この時、妻ヨシは防空壕に避難し、大城は職場へ駆けつけました。宮古では13日にも再び空襲があり、その翌日、大城は郊外に隣組で防空壕を掘りました。
 年が明けて昭和20年の元旦には、神社を参拝し、軍官民が参加する町主催の奉祝新年宴会に出席。家庭では酒5合の配給はあったものの肉はなく、野菜が正月の御馳走だったとあります。
 年が明けると空襲は頻度を増し、妻を郷里兼城村へ引き揚げさせる用意を始めます。3月1日の空襲では、軍民の必需品を満載した輸送船団が次々と攻撃を受けます。その時の様子を「友軍一機モ応戦セズ地上砲火発砲セルモ命中セズ」と、米軍の攻撃に日本軍は手が出せない状況だったと述べています。
 3月8日には、妻が漁船で沖縄本島へ引き揚げます。日記には、「家財道具積込妻1人出発帰郷ス 空襲警報解除中デアルガ毎日敵機B24・29飛来シテ海上不安ノ際ニ妻ハ全ク戦場ヘ向フ決死的デ那覇ヘ向出発」とあり、大城は1人船陰が見えなくなるまで妻を見送ったと書いています。
 3月22日にも空襲警報が発令され、翌日の23日には明け方から夕方まで空襲があり、その晩に平良町民は郊外へ避難しました。日記は、3月25日から31日まで、連日未明より空襲があったとの記述で終わっています。
      
       
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